今の憲法は(GHQの)押し付け、というのは事実に反する

そうなんです。

 

日本には、明治時代の自由民権運動や大正時代の大正デモクラシーなど自由とデモクラシーを求める流れがあり、そういう流れの延長線上で、日本人たちによって今の憲法は発案されました。

 

1945815日に戦争が終わり、それまで活動を制限されていた人たちが自由にものを言ったり活動したりできるようになりました。

 

そんな中、日本人の手で新しい憲法を作るために、鈴木安蔵という憲法学者を中心とする日本人達が憲法研究会を作って、194512月に憲法草案要綱を発表しました。この憲法案には国民主権や自由権はもちろんのこと、生存権や、儀礼的代表としての天皇(象徴天皇の原型)も書かれていました。

 

おなじころ、1945年12月19日の内閣情報局世論調査課の憲法改正に関する世論調査報告によれば、国民の4分の3が憲法改正を望んでいました。

 

それは、あの悲惨な戦争と、その結果としての多くの命の犠牲と国土の荒廃をもたらした、戦前の軍国主義・全体主義にほとほとイヤケがさした日本国民の声だったと考えていいでしょう。

 

鈴木安蔵は、長く忘れられて埋もれていた明治の自由民権の士、植木枝盛の作った民主的な憲法を1936年(昭和11年)に再発見した憲法学者で、今の日本国憲法のもとになった憲法研究会の憲法草案要綱には、植木枝盛の民主憲法も流れ込んでいました。

 

それとは別に政府も憲法を作る作業を進めていましたが、政府が作った松本案は明治憲法と大差なく、民主憲法ではなかったので、国際政治上の理由もあって、鈴木安蔵たちの憲法研究会の作った憲法草案要綱をベースに急遽GHQ案を作りました。

 

以下のことは登録すべき具体的な重要文書(含む、テープ)のリストにも書いたことですが、

 

GHQ案を作ったGHQ民政局法規課長だったマイロ・ラウエルが私たちは確かにそれ(=「憲法研究会」の憲法草案要綱)を使いました。意識的に、また無意識的に」と言って、日本人による憲法研究会が作った憲法草案要綱が日本国憲法の原型であることを証言しているテープがアメリカのトルーマン・ライブラリーに残っています。つまり、根本のところで、日本人が今の憲法のベースとなった憲法案を作ったのであって、GHQはそれにOKを出したにすぎないということになります。

 

GHQは「GHQ案がいやなら、松本案とGHQ案を国民投票にかけて国民にどちらがいいか選んでもらってもいい」という選択肢を日本政府に提案しました。


上にも書いた通り、当時、多くの国民が戦前の全体主義に嫌気がさしていて、国民の4分の3は民主憲法を望んでいました。ということは国民投票をやったら、国民はGHQ案を選ぶだろうことは明らかでした。


それを嫌った当時の日本政府は、日本国民が国民投票で憲法を選ぶチャンスをつぶしました。

 

1946120日にマッカーサーを訪問した、時の総理大臣幣原喜重郎は憲法に「戦争放棄」を入れることを提案し、それをマッカーサーがOKしてGHQ案に入れ、それが今の憲法の9条になりました。つまり、9条を作ったのも日本人でした。

 

GHQ案には25条(生存権)はありませんでしたが、衆議院憲法改正小委員会で、衆議院議員森戸辰三(憲法研究会のメンバーでいあた)が、憲法研究会にあったのに、GHQ案ではなくなっていた生存権を入れるように提案、その結果、今の憲法に25条が入りました。

 

このように、日本国憲法は日本人が作ったもので、GHQが作ったとか、GHQが押し付けたとかいうのは、事実に反します。

 

なお、憲法が効力を持つようになった194753日から1年後2年以内の期間に「新憲法が果たして日本国民の自由な意思の表明であるかどうかを決定するため、同憲法にたいする国民世論を確かめる目的をもって国民投票ないしその他の適当な措置を講ずる間に憲法の改正が必要かどうか検討して、それが必要だという結論なら国民投票も含めて必要なことをやっていい」と日本政府は言われていましたが、そのチャンスは吉田茂首相によって握りつぶされました。

 

憲法の国民投票を2度もつぶしたのは、いずれも時の日本政府だったということも忘れてはいけないでしょう。

 

 

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*富士山写真撮影・提供:樋口健二 禁、無断転載・無断使用