*これらのドキュメントは9条(戦争放棄・戦力不保持)が日本人、幣原喜重郎総理によって1946年1月24日にマッカーサー元帥に対して発案されたことを示しています。これらを通じて、9条の生みの親の彼がこの憲法の規定に託したスピリット、思い、情熱を知ることができるでしょう。
幣原のこの発案は、「2000万人に及ぶ死の犠牲を負わせた第二次大戦の加害者であると同時に約300万人ともいわれる自国民の犠牲者を出した」事実を反省し、更に広島・長崎に投下された原爆によって多大な被害を受けて世界で唯一の被爆国民となった全日本人の真の平和を求める願いと犠牲者たちへの鎮魂の思いを代弁し、凝縮しているように思います。
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① 憲法調査会資料「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた経緯について 平野三郎氏 記 昭和三十九年二月」 日本の国立国会図書館憲政資料室 蔵
② 1951年5月5日アメリカ上院軍事外交委員会マッカーサー証言 オリジナルの速記録 アメリカ公文書館 蔵 (この速記録のP498-787が該当部分)
③ 憲法調査会報告書付属文書第2号・制定の経過に関する小委員会報告書 憲法調査会 昭和三十九年七月 日本の国立公文書館 蔵
④ 羽室メモ(幣原の親友で当時枢密院顧問だった大平駒槌=おおだいらこまつちが幣原から聞いたことを、大平の息女である羽室ミチ子がメモ書きしたもの) 所在確認中
① 幣原喜重郎「外交五十年」(中公文庫)P230~P232
② ダグラス・マッカーサー回想記(中公文庫)P455~457
*上下に分冊に分かれた中公文庫では、( 下)の P238~P240
③コートニー・ホイットニー『日本におけるマッカーサー 彼は我々に何を残したか』(抄訳 毎日新聞社外信部訳 毎日新聞社 1957年)
原書『MacArthur - His Rendezvous with History 』 by Courtney Whitney P257~258
⑤平野三郎「平和憲法の水源 昭和天皇の決断 P114~P122
⑥昭和二十一年三月二十日樞密院ニ於ケル幣原総理大臣ノ憲法草案ニ關スル説明(国会図書館 蔵)
⑦1946年3月20日、枢密院非公式会合発言(幣原平和財団「幣原喜重郎」、1955年、694頁)
⑩1946年の総理当時幣原喜重郎が「各所において試みた戦争放棄と徹底平和に関する演説の草稿」その他より
この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したもの。(資料のはしがきより)
この資料を作成した平野三郎は、それを作成したいきさつについて次のように述べている。
「私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬のことである。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。その内容については、その後まもなくメモを作成したのであるが、以下はそのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。
なお、当日の幣原先生のお話の内容については、このメモにもあるように口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである」
以下はこの文書の重要部分の抜粋。
(全文はhttp://kenpou2010.web.fc2.com/15-1.hiranobunnsyo.htmlで読めます)
「あれ(第九条)は一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ」
「原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。不振と猜疑が亡くならない限りそれは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。
そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持っているものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか、そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。責任は自分にはない。どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。
果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが軍拡競争の果ての姿であろう」
「要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ方法がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである 。
一、二、三の掛け声もろともすべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。もちろん不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。誰かが自発的に武器を捨てるとしたらー」
「非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か、それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ」
「僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることによって再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である」
「僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。もちろん軍隊をもたないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。とくに世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論によって裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。もしある国が日本を侵略しようとするそのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。その第三国との特定の保護条約生むにかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力によってわが国の安全を守るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ」
「幸いマッカーサーは天皇制を維持する気持ちをもっていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。所がアメリカにとって厄介な問題があった。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備したら大変である。戦争中の日本軍の行動はあまりにも彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の評決ではアメリカは孤立する恐れがあった。この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることができる。この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存即と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。
この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打ち明けることのできないことである。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二一年の一月二四日である。その日僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決ま った訳だ」
「日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったらだれが世界の運命を切り拓くか。
好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にある。歴史の偶然は日本に世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史の偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか」
「僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案をもって天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は吉田君にも立ち会ってもらった。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議の時も陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言っ てもよいだろう。もしあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己を捨てて国民を救おうとさらのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。 正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足している。
なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え」
「日本の民衆は『核戦争が何を意味するか?』について世界のいかなる民衆よりもよく知っていました。彼らにとってそれは理論ではありませんでした。彼らは原爆投下によって死んだ者の数を数え、それらの死んだ者たちを葬ったのです。彼らは自分たちの意志で戦争を非合法化する規定を彼らの憲法に規定しました。日本の首相幣原氏が私の所にやって来て、言ったのです。『私は長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争をなくすことだという確信に至りました』と。彼は言いました。『私は非常にためらいながら、軍人であるあなたのもとにこの問題の相談にきました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないだろうと思っているからです。しかし、私は今起草している憲法の中に、そういう条項を入れる努力をしたいのです。』と。
それで私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って、それは取られ得る最高に建設的な考え方の一つだと思う、と言いました。世界があなたをあざ笑うことは十分にありうることです。ご存知のように、今は栄光をさげすむ時代、皮肉な時代なので、彼らはその考えを受け入れようとはしないでしょう。その考えはあざけりの的となることでしょう。その考えを押し通すにはたいへんな道徳的スタミナを要することでしょう。そして最終的には彼らは現状を守ることはできないでしょう。こうして私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れたのです。そしてその憲法の中に何か一つでも日本の民衆の一般的な感情に訴える条項があったとすれば、それはこの条項でした。」
( http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140513/p1 「小海キリスト教会牧師所感 日本国憲法の制定過程(その8)第9条の発案者」より引用)
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憲法調査会報告書付属文書第2号・制定の経過に関する小委員会報告書(憲法調査会事務局)
国立公文書館デジタルアーカイブ
http://www.digital.archives.go.jp/index.html
[請求番号] 本館-2A-038-08・憲00092100 [作成部局] 内閣 [年月日] 昭和36年12月 - 昭和36年12月 [マイクロフィルム] 002100 [開始コマ] 1135
(下のマイクロフィルムの写真はイメージ画像です)
まず、この文書について触れている三つのサイト・PDFの文章を紹介したい。
①http://bannof.world.coocan.jp/kenpo9jou.html
57年には岸信介が憲法調査会を組織し、会長に高柳賢三が指名された。調査会からの質問にマックは書簡で回答し、回顧録と同じ内容の証言を伝えている。高柳は 「種々の証拠を熟視した結果、幣原発案説を結論とする」と報告し、了承された。
②http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-230.html
後の1956年に自民党単独による憲法調査会が設置され,その調査会長となった高柳賢三東大教授も「天皇・憲法第九条」の中で
「憲法9条は(中略)調査会の集めたすべての証拠を総合的に熟視してみて、私は幣原首相の提案とみるのが正しいのではないかという結論に達している」(次の③では同書16頁〔註二〕とあるが、正しくは「同書76~77頁」なので、訂正しておく)
③
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/9186/1/horitsuronso_49_3-4_1.pdf
憲法第9条の起草,制定とその解釈(一) (前編) 安澤喜一 24頁
〔註二〕 高柳賢三氏「天皇・憲法第九条」16頁76~77頁
「………ところが、幣原首相に近かった多くの人達は、当時幣原がそんなことはおくびにも出さなかったことと、二月二十二日の閣議で第九条の提案者がマ元帥であるかのごとき発言をしていたので、提案者は幣原ではないと推測したのも無理からぬところである。しかし調査会の集めたすべての証拠を総合的に熟視してみて、わたくしは幣原首相の提案と見るのが正しいのではないかという結論に達している。じかに幣原氏から自分の提案だと聞いた調査会の参考人長谷部忠氏は、閣僚諸氏は幣原さんにごまかされていたのだったという趣旨のことを述べているが、この長谷部氏の陳述は、当時の事情を背景として考えると、的はずれの推定ではないようにわたくしには思われる」
以上の①②③を踏まえたうえで、長文だが、昭和三十年代の日本政府の手による公的かつこれ以上望めないレベルの包括的な調査報告である、以下の
憲法制定の経過に関する小委員会報告書(憲法調査会事務局)の文章を読んでいただきたい。
歴史から消された(?)昭和30年代の憲法調査会 http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/43582905.html より
第五章 総司令部案の成立
第二節 総司令部案における天皇制と戦争放棄
一 天皇制
二 戦争放棄(p318~)
マッカーサー・ノートの三原則のうち第二に掲げられた戦争放棄の原則が、少なくともSWNCC-二二八には明示されておらず、むしろSWNCC-二二八は将来における日本の軍備を前提とするもののように解される面があったことから見て、アメリカ政府の意向によるものではなくマッカーサー元帥の独自の発案と見られるという問題については、すでに、SWNCC-二二八と関連してアメリカ政府の日本非武装化政策の問題として述べたところであった。したがってここでは、マッカーサー元帥がこの原則をマッカーサーノートに書き入れた際の意図について述べることとする。
この戦争放棄条項をマッカーサー・ノートに書き入れた趣旨についてのマッカーサー元帥の見解は、後に一九四六年四月五日の対日理事会第一回会議においてみずから行なった演説にきわめて詳細かつ力強く述べられている。すなわちこの演説においてマッカーサー元帥はその約一か月まえに「憲法改正草案要綱」として発表された憲法改正案におけるこの戦争放棄条項について特に述べているのであるが、それはこの条項に対しアメリカの新聞論調などにもそれがあまりに理想主義的、非現実的であり、こどもらしい夢物語であるという趣旨の批判が見られたのに対して、そのしからざるゆえんを説き、いわば一しを報いたもののように思われる。その部分は次のとおりである。
「提案されたこの新憲法の条項はいずれも重要で、その各項、その全部が、ポツダムで表現された所期の目的に貢献するものであるが、私は特に戦争放棄を規定する条項について一言したいと思う。これはある意味においては、日本の戦力崩壊から来た論理的帰結にほかならないが、さらに一歩進んで、国際分野において、戦争に訴える国家の主権を放棄せんとするのである。日本はこれによって、正義と寛容と、社会的ならびに政治的道徳の厳律によって支配される国際集団への信任を表明し、かつ自国の安全をこれに委託したのである。皮肉家は、かかる行為を夢のごとき理想への示威的な、しかも小児的な信仰と見るかもしれないが、実際家は、これをもっと深い意味に見るであろう。実際家の見るところでは、社会進化の行程において、人類は国歌を作る際、その構成員である自分たちを支配する統治権を国家に与えるために、人間本来のものであるある種の権利を投げ出さねばならなかった。その政治体に譲り渡した権利の第一番のものは、隣人との争いの解決に、力をもってするという、人間としての原始的な権利であった。社会の進化につれて、団体または州国家は、同じ方法でいっしょになって集合国家を作り、本来の権利を投げ出して、集合意思の表示である統治権力に服従することにした。こんな方法で、北米合衆国はでき上がったのである。国家の統治権を作るために、個々の州は本来の権利を放棄した。最初は州が各個人の人格を認め、その保護者となり、後には国家が各州の独立権を認め、その保護者となったのである。
日本政府は、いまや国家の政策としての戦争が、完全な失敗であることを知った人民を支配しているのであるが、この日本政府の提案は、事実上人類進化の道程におけるさらにもう一歩の前進、すなわち国家は戦争防止の方法として、相互間に国際社会道徳上、または国際政治道徳上、さらに進んだ法律を発達させねばならぬということを認めたものである。文明の進歩および存続は、疑いもなくかかる前進の一歩が絶対必要であることを、良い時期に認めるかいなかにもっぱらかかっている。いいかえれば、国際紛争の判定者としての武力が全然無益のものであることを、各国家が認めるかいなか、力による脅迫、国境侵犯、秘密行動、および公共道徳じゅうりんなどから必然的に由来するさい疑、不信、および憎悪などを、国際関係から除くかいなか、戦争の場合、その恐るべき大殺りくの重荷を主として担う大衆のえん戦心を具体化するだけの道徳的勇気を持った世界的大指導者が出現するかいなか、地上の各国民が支持しかつ従属するより高い法律があり、日本のような国が安心してその独立をそれにまかしうるような世界秩序ができるかいなか、に係っている。そこにおいてのみ、はじめて永遠の平和への道があるのである。
ゆえに私は、、戦争放棄の日本の提案を、世界全国民の慎重なる考察のため提供するものである。これは道を――ただ一つの道をさし示すものである。連合国の安全保障機構は、その意図は賞讃すべきものであり、その目的は偉大かつ高貴であることは疑えないが、しかし、日本が、その憲法によって一方的に達成しようと提案するもの、すなわち国家主権の戦争放棄ということを、もしすべての国家を通じて実現せしめうるなら、国際連合の機構の永続的な意図と目的とを成就せしむるものであろう。戦争放棄は、同時かつ普遍的でなければならない。それは全部か、しからずんば無である。それは、実行によってのみ効果づけられるのである。ことばだけでなく、平和に尽力する万人の信頼できる、明白にして偽りのない行動でなければならない。意志遂行のための現存の用具、すなわち構成各国家の持ち寄る武力は、各国民がなお国家主権の交戦権を併存のものとして認める限り、よく行っても一時的の手段でしかありえない。
近代科学の進歩のゆえに、次の戦争で人類は滅亡するであろう、と思慮ある人で認めぬ者はない。しかるになおわれわれはためらっている。足下には深えんが口をあけているのに、われわれはなお過去を振り切れないのである。そして将来に対して、こどものような信念をいだく、世界はもう一度世界戦争をやっても、これまでと同様、どうにか生き伸びうるだろうと、この無責任な信念の中に、文明の恐るべき危機が横たわっているのである。
われわれはこの理事会において、近代世界の軍事力および道義の力を代表しているのである。戦争という高い代価を払ってあがなった平和を固めかつ強めることは、われわれの責任であり仕事である。ゆえに、ただいま私が簡単にそのこう概を説明した決定的条件を国際部(?)面において処理する上に、国際間の思想と行動を理性の支配の下に引き戻し、世界に貢献するという高い水準において、必然、相当の役割を果すことができよう。それによって、世界人類の教養ある両親から、満こうの共鳴を受けるような平和維持のため、世界をして、さらに一歩、より高き法則に歩み寄らせることが、われらにできるよう祈りを捧げるものである。」
以上の演説においては、戦争放棄条項に対するきわめて調子の高い理想主義的な見解が述べられており、同時のこの理想の達成は単に日本のみがこの規定を設けるだけではなくすべての国が同一の歩調をとることによって可能であるという見解が述べられているのであるが、後に、渡米調査団の調査におKる、高柳会長あての書簡においても、マッカーサー元帥はさらに当時の見解を明らかにしている(一)。すなわち「第九条のような規定を新憲法に入れることを日本政府に提示した趣旨はどこにあったのか。」という高柳会長の質問に対して、マッカーサー元帥は、第一は将来の日本がふたたび外国を侵略することはしないという決意を表明すること、第二は、精神的に世界を指導するということの二つであると答えている。そして第一の点についてマッカーサー元帥は、第九条は
国民の安全を守るため、 すなわち外国からの侵略に対して日本の安全を守るためにいかなる措置をもとりうることを妨げる趣旨ではないと述べ、第二の点について、日本国憲法第九条は幣原首相の先見の明と、経倫の才と、英智を示す不朽の記念塔であるということを述べている。この第二の点については後に述べるが、第一の点について、後にマッカーサー元帥が朝鮮事変のぼっ発に伴って日本陸海空軍の設置を日本政府に勧告しているので、いわゆる冷戦の発生とともにマッカーサー元帥に心境の変化があり第九条に関する態度を改めたのではないかという推定が、日本人の間ばかりでなく、総司令部ないの一部の人の間にも行なわれている。これに対してマッカーサー元帥のこの言明は、初めから第九条は日本がふたたび外国を侵略することのないという決意を明らかにする旨であって、日本の安全が脅威を受けるような場合戦力を持ちえないという趣旨ではなかったとしているところが重要である。
なお、この点は後に憲法改正案の衆議院における審議においていわゆる芦田習性が成立した際の事情とも関連するが、この点は後に第五編で述べることとする。
ただし、この条項についてマッカーサー・ノートに総司令部案とを対照してみると、マッカーサー・ノートでははっきり自衛権をも放棄するということも現わしていたのに対して総司令部案ではこの点の文字が削除されていることが明らかであり、なにゆえにこのような変化が生じたのかが問題となる(二)。
この点については、この間の事情は、マッカーサー・ノートを受けて総司令部案を起草した民政局の法律家たちの心境を理解する必要があるとする意見がある。すなわちマッカーサー・ノートには日本は、戦争を「自己の安全を保持するための手段としてのそれ」としても放棄するという文字があったのであるが、それは侵略をふたたびしないという日本の平和への意思を世界に向かって強く示すために用いられた政治的な宣言のリトリカルな修辞的な表現であると見ればよく理解しうるのであり、このマッカーサー・ノートを民政局の冷静な批判的な法律家から見れば、自衛のためにも戦争をなしえず戦力を保持しえないとするのは不合理であると考えられたのである。かくして総司令部案ではこの文字が削除されたのであるとする(三)。
(一)高柳賢三委員・総二四回二八頁以下
(二)神川彦松委員・制定委二六回二〇頁
(三)高柳賢三委員・総二四回二九頁二二頁
三 戦争放棄条項の提案者(p323~)
総司令部案における戦争放棄条項の起源がマッカーサー元帥によって書かれたマッカーサー・ノートの三原則のうち第二原則に発するということは明らかであるが、しかしその最初の提案者はマッカーサー元帥ではなく幣原首相であり、マッカーサー元帥はこの幣原首相の提案に動かされてそれをマッカーサー・ノートに書き入れたのであるという見解がある。しかしこれに対しては、反対の見解もある。また、この二つの見解に対して、戦争放棄条項はそのいずれがいい出したにせよ、日本の完全非武装化すなわち日本の再軍備の永久的禁止という連合国、特にアメリカ政府の不動の政策に由来するものであり、その根本政策を文字に表現すれば第九条のごとくに書くよりほかはないのであるから、それを先にいい出したのが幣原首相であるか、マッカーサー元帥であるかという問題は、実はあまり問題ではない、とする意見もある(一)。ここでこの問題について考察することとする。
(一)まず、この問題に関して、当時の関係者が参考人として述べたところを要約して、次に掲げる。
(1)吉田茂参考人「私の感じでは、これはやはりマッカーサー元帥の考えによって加えたものと思います。 もちろん幣原総理も同様の信念を持っておられ、総理と元帥との会談の際そのような話が出て、両社が大いに意気投合したということはあったと思いますが、憲法にこの種の規定を設けるまでのところを幣原首相が申し出たものとは考えられません(二)。」
(2)楢橋渡参考人「幣原首相が第九条のイニシアティブをとったのではないと確信する。第九条はマッカーサーが極東委員会に対する考慮から、日本が平和的になったことを強く出すことによって、日本に対する国際的な圧力を回避しようとした結果であると思う(三) 。」
(3)佐藤達夫参考人「幣原首相がマッカーサー元帥に対して憲法の条文に入れたいというまでの具体的な提案をしたとは思われない。ただ両者が大いに意気投合したことは事実であろう(四) 。」
(4)白洲次郎参考人「正確なことは分からないが、私の印象では幣原首相があの程度まで、軍備を全然放棄するという考えであったかどうかについては非常に疑問である(五) 。」
(5)岸倉松参考人「幣原首相は第九条の条項にはなんら関係していなかったのであり、同条項を憲法の草案にそう入するということは幣原首相の関知せざるところであったことは明瞭である。しかし、幣原首相の戦争放棄の悲願はマッカーサー元帥を深く感動させ、それが動機となって第九条が総司令部案に規定されることとなったと確信する。幣原首相がこの悲願をマッカーサーに述べたのは昭和二一年一月二四日の三時間にわたる会談においてであった。この会談の事実については後にマッカーサー元帥が上院委おいて行なった証言および第七五歳誕生祝賀会における談話によっても明瞭であるが、なお昭和二五年五月二日、幣原衆議院議長が衆議院の大池事務総長とともにマッカーサー元帥を訪問した際、マッカーサー元帥は、日本国憲法制定にあたり幣原氏がいっさいの戦力を放棄するといったがその時自分はそれは約五〇年早すぎる議論ではないかと思いながらもその高遠な理想に深い敬意を払ったという回顧談を行なったという事実を大池氏が手記していることからも明瞭である。要するに幣原首相とマッカーサー元帥の気合がみごとに一致して戦争放棄の条項が生み出されたのである(六) 。」
(6)大池真参考人は、右の岸倉松参考人の公述で触れられている幣原議長とマッカーサー元帥との会見の際の元帥の回顧談について、次のように述べている。
「……戦争放棄の点につきましては、はっきり非常にゆっくりした調子で幣原さんに語られたのであります。その極めて短いことばでありましたが、自分は日本に進駐してくるまでは武力によって破壊行動ばかりをやってきたのだ、けれどもこれからは平和のために建設事業に全力を注ぎたいと考えておるのだ、こういう前提をいっておりました、ちょうど幣原さんが総理の時に日本憲法の制定に当たられたのであるが、ミスター幣原は日本はいっさいの戦力というものを放棄する―戦争放棄ということばのことはいいませんでした―戦力を放棄するとこういわれたのだが、自分はその時にこの非常な高まいな思想といいますか、そういう崇高な精神に非常に撃たれてたいへんな敬意を持っておったのだ、これはまったく世界にどこにもない一つの手本を示すものだと考えて、非常な敬意を払ったのだけれども、その当時すでに自分としてはこの考え方は少し早きに失するのではないかという感じを持ったところが現在の世界情勢を見ると、どうも五〇年ぐらいはあのことは早かったのじゃないだろうかね、という意味のことを幣原さんに非常に真剣な面持ちでいわれておりました(七) 。」
(7)入江俊郎も、昭和二五年の春、国会議員団の第一回訪米の際に、あいさつのため衆議院の島渉外課長が議員団とともにマッカーサー元帥を訪問した際にも、ほとんど右と同じ回顧談をマッカーサー元帥が試みたことがあると述べている(八) 。なおこのほかに、入江俊郎は、すでに前にも述べたように、いわゆる松本案を審議した昭和二一年一月三〇日の閣議において、松本案が軍の統帥等に関する規定を存置していたことが論議された際、幣原首相が、世界の大勢から見て将来においてわが国にも軍ができるかもしれないが、今日の場合としては、こお規定を削除したほうが得策であるという趣旨を、再三にわたって主張したことは興味があるといい、また、幣原首相の平和主義の信念、前記の島渉外課長の談話およびホイットニーの下で総司令部案の起草に当ったリゾーが、総司令部案起草の際、運営委員会のメンバーに対して、ホイットニーがマッカーサー・ノートの戦争放棄条項は幣原首相の提言によるものである旨を述べたと語ったこと等を総合して考えると、やはり幣原首相が少なくとも戦争の絶対放棄についてマッカーサー元帥に強い印象を与えたものであろうと述べている(九) 。
(8)なお長谷部忠参考人は、松本国務大臣や当時の閣僚であった芦田均委員が、後に掲げるように幣原首相は閣議において戦争放棄条項が自分の提案によるものであったという趣旨をまったく発言しなかったと述べていることに関して、次のように述べている(一〇) 。
「当時の松本烝治さんとかその他のかたがあるいは向こうから押しつけられたのだといっておるのは、非常に悪いことばでいえば、日本の閣僚まで幣原さんにごまかされておった、幣原さんがこっそりマッカーサーのところにいって話をして、マッカーサーがそれを押しつけたというかっこうにして幣原さんは知らん顔をしておったと、そういうふうにぼくは――新聞記者だから意地悪く解釈するかもしれませんけれども――思うわけです。」
(二)以上のように、幣原首相が提案者であってマッカーサー元帥がこれに感動してマッカーサー・ノートに書き込んだのであろうとする見解および少なくとも幣原首相とマッカーサー元帥との間に意気投合があったであろうとする見解も有力であるがこれに対して、むしろ積極的に幣原提案説を否定する次のような見解も存する。
(1)松本国務大臣は、後に、いわゆる松本案が軍の規定を存置したものであったこと、またその総司令部への提出に際しては特にその点についての説明書を付加したことの事情を述べた際に、次のように述べている(一一) 。
「もうこのときから軍というものは置き、かつそれは内閣が統帥して行くようにしたいということをいっているのであります。そしてこの説明書を出すについては、幣原さんはもちろん同意されて、特にこれをいいとか賛成するとかいう意味をいわれたかどうか記憶しませんが、なんら異議なく出されている。しかるに其の幣原さんが、軍の廃止は自分の初めからの考えなんだということをマッカーサーにいわれたというのですが、幣原さんが後日マッカーサーに会っておられることはあとで申しますが、その時にでもいわれたか、どうもその時にいわれておらないように思うのです。いわれたとすれば、その時にそう決まった以上は、自分は最初から考えておったというようなことをいわれたのかもしれません。軍の廃止は最初向こうからこしらえて押しつけてきたので、それに対してこちらは相当反抗したのでありますが、それをこちらの意思でなにか軍の廃止をしたいからといったから、マッカーサーがそういうことを書いたのだといわれるのは、前後まったく転倒している。はなはだしいまちがいだと思います。」
(2)芦田均元委員も、総司令部案の交付を受けた後の二月二二日の閣議において幣原首相がその前日のマッカーサー元帥との会見の模様を述べたのを筆録した日誌の中で、この会見の際において、マッカーサー元帥が戦争放棄条項についてこの条項により日本が全世界に対して道義的リーダーシップをとることが賢明であると述べたのに対して、幣原首相が「この時ことばをはさんでリーダーシップといわれるがおそらくだれもフォローアー(follower)とならないだろうといった。」という趣旨をしるしている(一二) 。
(3)また、戦争放棄条項の提案者はだれかの問題においては第九条第一項の「戦争放棄」と第二項の「戦力放棄」とが混合されて論ぜられていることを指摘して幣原提案説に疑問を表明している意見もある。すなわち、その意見は、第一項の「戦争放棄」は不戦条約その他にも定められているところであって特に珍しいものではなく、かりに幣原首相がその原則を強調しマッカーサー元帥に印象を与えたとしてもそれは特に重大な意味を持つものでもない。したがって問題は、第二項の「戦力放棄」にあるのであるが、幣原首相がこの「戦力放棄」を強調ないし提案したとは考えられない。それは、マッカーサー元帥化アメリカ政府化いずれかの方針に基づくものである。しかるにマッカーサー元帥は後に、この「戦争放棄」と「戦力放棄」とを混同して第九条が幣原首相の提案によるものであると述べているのである、とする(一三) 。そしてまた、なにゆえにマッカーサー元帥が、右のように第九条が幣原首相の提案によるものであるととなえているといえば、それは、いずれにせよ第九条を書きおろして日本国憲法にそう入せしめた責任者はマッカーサー元帥であるが、しかも朝鮮事変ぼっ発後における警察予備隊の創設の指令以来、この第九条を破ったのはマッカーサー元帥自身であり、そこでマッカーサー元帥は第九条成立の責任を幣原首相に転嫁することによって、みずからの責任を回避しようとしたものと解されるとする(一四) 。
(4)当時の総司令部関係者たちは幣原提案説には批判的である。すなわち、ワイルズは、幣原首相がワイルズ自身に対して、戦争放棄の条項を見て驚いた、しかしこの条項が憲法にはいったことを喜んだと述べ、かつ、このような趣旨のことを自分がマッカーサー元帥に話したが、このような規定を憲法に入れることまではいわなかった、と語ったと述べている。また、ハッシーは、一九五〇年四月、彼自身が幣原に会ったとき、幣原は、一九四九年松の新聞記者会見においてマッカーサー元帥が第九条の作者は幣原であると述べたことによって自分は迷惑している(ディスターブされている)と語った、と述べており、その他、ハウゲ、コールトンなども幣原首相が第九条のようなことをマッカーサー元帥に示唆したということは可能ではあろうが、ありそうもないことであると思われる、と述べている(一五) 。
(三)当の当事者である幣原首相は、すでに昭和二一年三月ごろの時期から、いろいろの機会において、多くの内外人に対して、戦争放棄条項はまったく自分の発意によって入れることにしたものであるという趣旨を語っている。すなわち、本調査会における参考人の公述においても、長谷部忠参考人は、幣原首相からその旨の談話を聞いたと述べており(一六)、また馬場恒吾も同様の談話を聞いたと述べている(一七)。また青木得三参考人は、幣原首相が外国人に対しても同様のことを語ったことがあることを述べている(一八)。
また、幣原首相は、たとえば後に述べる昭和二一年三月二〇日の枢密院における説明をはじめ、昭和二一年三(?)月二七日の戦争調査会第一回総会におけるあいさつ(一九)、昭和二一年一一月一日の進歩党近畿大会におけるあいさつ、および「戦争放棄と徹底平和に関する演説草稿(二〇)」など、多くの機会において、戦争放棄条項に関するきわめて強い確信を述べている。
なお、当時の幣原首相の心境に関して、枢密顧問官大平駒槌の令嬢羽室ミチ子のメモは興味ある資料である。すなわち、大平顧問官は幣原首相の無二の親友であったが、このメモは、当時、幣原首相が大平に語ったところを、大平の口述により羽室ミチ子が筆記したものである。このメモによれば、大平は、次のように語っている(二一)。
「幣原は病気中に随分色々の事を考えたらしい。まず一番の念願である天皇制を維持しなければ死ねない。ともかくはっきりするようになんとかしなければならないと言う事。それから原子爆弾の様なおそろしい兵器による将来の戦争の恐ろしさ、又世界を平和に保つことが出来る様にするには如何にすればよいか等という事を考えてみたと言う。」
「それで病気の礼を言いに、一月末マッカーサーを訪ねた時三時間程二人だけでいろいろの事を話合った。……この日はこちらから先に頭からマッカーサーに自分は年をとっているのでいつ死ぬかわからないからどうか生きている間にどうしても天皇制を維持させてほしいと思うが協力してくれるかとたずねた。これに対してマッカーサーは……天皇制を維持させる事に協力し、又その様に努力したいと思っていると返事した。」
「そこで幣原は……ホット一安心したらしい。つゞいてあれこれ話を始め、かねて考えた世界中が戦力をもたないという理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところがマッカーサーは急に立ち上がって両手で手を握り涙を目にいっぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びっくりしたと言う。」
「幣原は更に世界から信用をなくしてしまった日本にとって戦争をしないと言う様な事をハッキリと世界に声明する事、又それだけが敗戦国日本を信用してもらえる唯一の堂々と言える事ではないだろうかと言う様な事も話して大いに二人は共鳴してその日はわかれたそうだ。」
「マッカーサーは出来る限り日本の為になる様にと考えていたらしいが本国政府の一部、GHQの一部、極東委員会では非常に不利な議論が出ている。殊にソ連、オランダ、オーストラリヤなどは殊の外天皇と言うものをおそれていた。……だから天皇制を廃止する事は勿論天皇を戦犯にすべきだと強固に主張し始めたのだ。この事についてマッカーサーは非常に困ったらしい。そこでできる限り早く幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し日本国民はもう戦争をしないと言う決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとする事を憲法に明記すれば外国もとやかく言わずに天皇制へふみ切れるだろうと考えたらしい。……これ以外に天皇制をつづけてゆける方法はないのではないかと言う事に二人の意見が一致したのでこの草案を通すことに幣原も腹をきめたのだそうだ。」
右の羽室メモにおける大平駒槌の談話に関して、高柳委員は、次のように述べている(二二)。
「もちろん平和主義者であった幣原首相が原子力時代戦争はもうできない、世界各国が第九条のように戦争放棄、戦力不保持の原則を模範とするようになれなければ人類は滅亡するという、世界的な立場からその見解をマッカーサーに語り、マッカーサーもこれに同調したということはりましょう。……
しかし同時にまた、日本の政治家としての幣原首相が、第九条のような規定を置くことが天皇制保持のための最善の方策であるというふうに考えたことも可能でしょう。しかもそれは、幣原さんらしい考え方のようにも思われます。もっとも羽室さんは戦争放棄を両氏のうちどちらがいい出したかは、これははっきり記憶しませんと、私への手紙の中で書いておられます。しかし、天皇制保持と九条を結びつけて考えるときマッカーサーのはっきりというように、幣原首相のいいだした提案であるということおやはり可能性があるんじゃないかとも思われるのであります。そしてこれによって、いろいろなあのころの動きがはっきりするような気もいたします。」
また、村上義一委員も、戦争放棄条項を最初に提案したのが幣原首相とマッカーサー元帥のいずれであるかは別として、二人とも天皇制を維持すべきであるという点においては一致しており、戦争放棄条項も極東委員会内部における天皇制廃止論の余地なかれしめるために必要であるということに二人の意見が一致した結果であると思う、と述べている(二三)。
(四)最後に、当事者の一人であるマッカーサー元帥は、昭和二一年四月五日、すなわち「憲法改正草案要綱」の発表後一か月の時期において前に掲げた対日理事会第一回会議における演説で、はじめて戦争放棄条項に関する見解を公にしている。そこでは、マッカーサー元帥は、この条項について、「日本政府は、いまは国家の政策としての戦争が完全な失敗であることを知った人民を支配しているのであるが、この日本政府の提案は、事実上、人類進化の道程におけるさらにもう一歩の前進、すなわち国家は戦争防止の方法として、相互間に国際社会道徳上、または、国際政治道徳上、さらに進んだ法律を発達させねばならぬということを認めたものである。」と述べ、また、「ゆえに私は、戦争放棄の日本の提案を、世界全国民の慎重なる考察のために提供するものである。」と述べた。
さらにマッカーサー元帥は、後に、いろいろの機会に次のように、戦争放棄条項が幣原首相の提案に基づくものであることを述べている。
(1)マッカーサー元帥は、アメリカ帰還直後、一九五一年五月五日上院の軍事・外交合同委員会における証言において、世界から戦争をなくすことができると考えるかという趣旨のマクマホン議員の質問に対する答弁の中で、それは不可能ではないと述べ、その証拠として戦争放棄条項に触れて、次のように述べた。
「現に日本にはそれのりっぱな確証がありました。あなたは広島と長崎のことをいわれました。そして日本人は世界中のどこの国民にもまして、原子戦争がどんなものだかを了解しています。彼らにとてはそれは理論上のことではなかったのです。彼らは死がいを数え、それを埋葬したのです。彼らは自分の意思でその憲法の中に戦争放棄の条項を書き込みました。首相が私のところに来て、『私は長い間考えた末、信ずるに至りました。』といいました。彼はきわめて賢明な老人でした。――最近なくなりましたが――そしてこういいました。『軍人としてのあなたに此の問題を差し出すのは非常に不本意です。なぜなら、あなたがそれを受け入れないものと信じているからです。しかし私は今われわれが起草中の憲法に、このような条項をそう入するように努力したいと思います。』
そこで私は立ち上がって、この老人と握手し、彼に向かい、それこそはおそらく講じうる最も偉大な建設的措置の一つだと考える。』といわないではいられませんでした。私は彼(幣原首相)に、彼が世界からちょう笑されるということは実際ありうるといいました。御承知のように今は暴露時代であり、ものごとを冷笑的な態度で見る時代ですからね。世界はそれを受け入れまい。それはちょう笑の的になるあろうし、またそうだったのです。それを貫徹するには大きな道義上の気力が必要となるだろが(ママ)、究極においてそれをあざける連中は、その態度を維持できなくなるかもしれないといいました。しかし私は、彼を元気づけました。そして日本人はその条項を憲法の中に書き込んだのです。そしてその憲法の中に、日本人の一般的感情に訴える条項があったとすれば、それは戦争放棄の条項でした。……」
(2)またマッカーサー元帥は、これより以前の一九四九年末の新聞記者団との会見においても、またこれより以後の一九五五年一月二六日、ロサンゼルス市主催のその第七五回誕生日祝賀会の席上においても、ほぼ右と同じ趣旨の談話を行なっている(二四)。
(3)なお、ホイットニーは、高柳会長あて書簡においても、マッカーサー・ノートの第二原則はマッカーサー元帥が幣原首相との会談後に書き留めた一般原則のおおざっぱな概要であったと述べているが、その会談において両者のうちのいずれがこの原則を提案したかについては、その「マッカーサー」において、第九条は幣原首相によって昭和二一年一月二四日の会談においてマッカーサー元帥に提案されたものであるといい、それがマッカーサー元帥の戦争に対する強い確信と一致したのであるとして、次のように述べている(二五)。
「私は……この会談の席にいなかった。しかし、二時半に幣原が辞した後すぐマッカーサーに会うために部屋にはいって行った。そして、会見前と後とのマッカーサーの顔に現われた表情によって、何か重大なことが起きたのだ、と私はすぐに感じとった。
マッカーサーは説明してくれた。……彼は、新しい憲法を起草するにあたって、戦争と軍備を持つことを永久に放棄する条項を加えるのを提案した。それによって日本は時刻を軍国主義の再出現から擁護することができるし、また警察のテロ行為を防止でき、同時に、最も懐疑的な自由世界にさえ、日本は将来平和主義のコースをたどる決意をしているという強力な証拠を提供することになると、幣原はいうのであった。幣原はなお軍事費のためのか酷な重荷から解放されることによってだけ、漸次拡張している人口のために、最低限度の生活必需品を供給することができるチャンスがあるのを指摘した。……彼らはこれについて二時間半話し合ったのであった。……マッカーサーはこれに賛意を表しないではいられなかった。長年にわたって、国家間の紛争をかたづける手段として戦争はもう時代おくれで、廃止すべきだというのが、彼の燃ゆるような信念であった。……戦争の問題についての彼の根強い確信があったればこそ、幣原首相の考えが、彼をひどく喜ばせたのであった。そこで、憲法草案の準備を進めるよう私に指令を下したとき、彼はこの原則を加えなければならぬと私に頼んだ。『国権の発動たる戦争は放棄する。』この原則は、総司令部の運営委員会がつくった草案にはいっている。そして、総司令部と松本委員会のメンバーとの間に、改正に関して月余にわたって討議されていたときに、戦争の条項だけは、一回も、またどんな形でも、日本側から苦情や反対が出たことがなかった。」
(五)戦争放棄条項の最初の提案者は幣原首相であるか、それともマッカーサー元帥であるかという問題に関しては、以上のような資料があり、そこにはこの問題に関する相対立する見解が主張されている。
またそこに掲げられたもののうちには、ことの真相を知るマッカーサー元帥および幣原首相の発言のような直接の証拠によるのではなく、情況判断に基づく推測的意見と見るべきものも少なくない。
本調査会成立の当時、幣原首相はすでに他界されていたので、その証言を得ることはできなかったのであるが、マッカーサー元帥からは証言を得ることが出来た。すなわち、マッカーサー元帥は、本調査会の、渡米調査団の調査において高柳会長の質問に対して、書簡によって、回答を寄せている(二六)。
この質問は「幣原首相は、新憲法を起草するときに戦争及び武力の保持を禁止する条項を入れる様提案してきましたか。それとも、首相は、このような考え方を単に日本の将来の政策の問題として提示し、貴下がこの考えを新憲法に入れるよう日本政府に勧告したのですか。」というのであったが、これに対するマッカーサー元帥の回答は次のとおりである。
「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行なったのです。首相は、私の職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対して私がどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそる私に会見の申し込みをしたといっておられました。私は首相の提案に驚きましたが、首相に私も心から賛成であるというと、首相は明らかに安どの表情を示され、私を感動させました。」
また、これを裏づけるものとしては、ラウエルが、総司令部案の起草を命ぜられた当時、ホイットニーから、マッカーサー・ノートの第二項目について、幣原首相とはいわなかったが、これは日本政府の提案であると聞かされたと述べていること(二七)、および前に入江俊郎参考人の口述を引用して掲げたように別の機会に起草者の一人リゾーも同趣旨のことを述べていることをあげることができる。また幣原首相が、前に掲げたように、昭和二一年三月ごろ以降多くの内外人に語っているところは、すべてマッカーサー元帥の証言を裏書きするものであろう。しかし、芦田均元委員のいわゆる芦田手記にしるされているところの幣原首相の閣議における発言は、その以後における幣原首相の発言とは一致せず、したがってまた、マッカーサー元帥の証言とも矛盾しているようである。
(一)神川彦松委員・制定委二〇回一三頁・制定委三四回三六-三七頁
(二)高柳会長あて書簡による吉田茂参考人の公述・総八回六頁
(三)楢橋渡参考人・総五回三三-三四頁
(四)佐藤達夫参考人・総四回四〇頁
(五)白洲次郎参考人・総六回三九頁
(六)岸倉松参考人・総六回四二-四五頁五二頁、幣原平和財団「幣原喜重 郎」六八四頁
(七)大池真参考人・制定委八回一五-一六頁
(八)憲資・総四六号 入江俊郎「日本国憲法成立の経緯」九八頁
(九)入江俊郎参考人・総五回六-七頁、同右 七三頁九七頁以下
(一〇)長谷部忠参考人・制定委八回一三頁
(一一)憲資。総二八号 松本烝治「日本国憲法の草案について」九頁
(一二)前掲「幣原喜重郎」六八八頁、高田元三郎委員・制定委一八回二三頁 以下、芦田均元委員・総七回七七頁
(一三)神川彦松委員・総六回五四頁
(一四)神川彦松委員・制定委二〇回一二頁以下一六頁以下
(一五)海外調査団の調査におけるワイルズ・ハッシー・ハウゲ・コールトンの談話・高田元三郎委員・制定委一七回四頁
(一六)長谷部忠参考人・制定委八回一一頁
(一七)馬場恒吾「自伝点描」二〇三-二〇四頁
(一八)青木得三参考人・制定委八回四頁
(一九)青木得三参考人、制定委八回二頁以下
(二〇)前掲「幣原喜重郎」六九五-六九七頁
(二一)憲法調査会事務局「戦争放棄条項と天皇制維持との関連について」
(二二)高柳賢三委員・総二四回三二頁
(二三)村上義一委員・制定委一六回二七頁・制定委一七回一九頁・制定委二三回二一頁・制定委二九回二〇頁・制定委三四回三〇頁以下
(二四)前掲「幣原喜重郎」六八二頁
(二五)ホイットニー「マッカーサー」・坂西志保委員による紹介・総六回三二頁以下
(二六) 高柳賢三委員・総二四回三一頁
(二七)憲法調査会事務局「マイロ・E・ラウエル氏との会談のおもな内容」六頁、前掲憲資・総四六号九九-一〇〇頁
「(幣原は)世界中が戦力を持たないという理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところがマッカーサーが急に立ち上がつて両手で手を握り涙を目にいつぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びつくりしたという。・・・マッカーサーは出来る限り日本の為になる様にと考えていららしいが本国政府の一部、GHQの一部、極東委員会では非常に不利な議論が出ている。殊にソ聯、オランダ、オーストラリヤ等は殊の外天皇と言うものをおそれていた。・・・だから天皇制を廃止する事は勿論天皇を戦犯にすべきだと強固に主張し始めたのだ。この事についてマッカーサーは非常に困つたらしい。そこで出来る限り早く幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し日本国民はもう戦争をしないと言う決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとする事を憲法に明記すれば列国もとやかく言わずに天皇制へふみ切れるだろうと考えたらしい。・・・これ以外に天皇制をつづけてゆける方法はないのではないかと言う事に二人の意見が一致したのでこの草案を通す事に幣原も腹をきめたのだそうだ」
( http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140513/p1 「小海キリスト教会牧師所感 日本国憲法の制定過程(その8)第9条の発案者」より引用)
「ここに掲ぐる史実は仮想や潤色を加えず、私の記憶に存する限り、正確を期した積もりである。若し読者諸賢において私の談話に誤謬を発見せられたならば、幸いにご指教を賜わるよう、万望に堪えない。」(幣原喜重郎『外交五十年』(中公文庫昭和61年、読売新聞社刊は昭和26年4月 序)
「「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに頭に浮んだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意志に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたのではないのである。
軍備に関しては、日本の立場からいえば、少しばかりの軍隊を持つことはほとんど意味がないのである。将校の任に当ってみればいくらかでもその任務を効果的なものにしたいと考えるのは、それは当然のことであろう。外国と戦争をすれば必ず負けるに決まっているような劣弱な軍隊ならば、誰だって真面目に軍人となって身命を賭するような気にはならない。それでだんだんと深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。戦争の主な原因はそこにある。中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思うのである。
も一つ、私の考えたことは、軍備などよりも強力なものは、国民の一致協力ということである。武器を持たない国民でも、それが一団となって精神的に結束すれば、軍隊よりも強いのである。例えば現在マッカーサー元帥の占領軍が占領政策を行っている。日本の国民がそれに協力しようと努めているから、政治、経済、その他すべてが円滑に取り行われているのである。しかしもし国民すべてが彼らに協力しないという気持ちになったら、果たしてどうなるか。占領軍としては、不協力者を捕えて、占領政策違反として、これを殺すことが出来る。しかし八千万人という人間を全部殺すことは、何としたって出来ない。数が物を言う。事実上不可能である。だから国民各自が、一つの信念、自分は正しいという気持ちで進むならば、徒手空拳でも恐れることはないのだ。暴漢が来て私の手をねじって、おれに従えといっても、嫌だといって従わなければ、最後の手段は殺すばかりである。だから日本の生きる道は、軍備よりも何よりも、正義の本道を辿って天下の公論に訴える、これ以外にはないと思う。
あるイギリス人が書いた『コンディションズ・オブ・ピース』(講和条件)という本を私は読んだことがあるが、その中にこういうことが書いてあった。第一次世界大戦の際、イギリスの兵隊がドイツに侵入した。その時のやり方からして、その著者は、向こうが本当の非協力主義というものでやって来たら、何も出来るものではないという真理を悟った。それを司令官に言ったということである。私はこれを読んで深く感じたのであるが、日本においても、生きるか殺されるかという問題になると、今の戦争のやり方で行けば、たとえ兵隊を持っていても、殺されるときは殺される。しかも多くの武力を持つことは、財政を破滅させ、したがってわれわれは飯が食えなくなるのであるから、むしろ手に一兵をも持たない方が、かえって安心だということになるのである。日本の行く道はこの他にない。わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に、私は達したのである。」
( http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20130304/p2 小海キリスト教会牧師所感 幣原喜重郎『外交五十年』より)
晩年のマッカーサーが生い立ちから軍人退任までを自ら綴った回顧録。
大戦当時の日本を知る上で大変重要な文献であり、翻訳書としては全体を訳出した「マッカーサー回想記」及び太平洋戦争から日本占領統治までを抜粋収録した「マッカーサー大戦回顧録」がある。
以下は『マッカーサー大戦回顧録 下』(中公文庫2003年)pp239,240 (『マッカーサー回想録』昭和39年版、朝日新聞社)
「幣原男爵は一月二十四日(昭和二十一年)私の事務所を訪れ、私にペニシリンの礼を述べたが、そのあと私は、男爵がなんとなく当惑顔で、何かをためらっているらしいのに気がついた。私は男爵に何を気にしているのか、とたずね、それが苦情であれ、何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないといってやった。
首相は、私の軍人という職業のためにどうもそうしにくいと答えたが、私は軍人だって時折りいわれるほど勘がにぶくて頑固なのではなく、たいていは心底はやはり人間なのだと述べた。
首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。
首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。
私は腰が抜けるほどおどろいた。長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄にはほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは息もとまらんばかりだった。戦争を国際間の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。
現在生きている人で、私ほど戦争と、それがひき起す破壊を経験した者はおそらく他にあるまい。二十の局地戦、六つの大規模な戦争に加わり、何百という戦場で生残った老兵として、私は世界中のほとんどあらゆる国の兵士と、時にはいっしょに、時には向い合って戦った経験を持ち、原子爆弾の完成で私の戦争を嫌悪する気持ちは当然のことながら最高度に高まっていた。
私がそういった趣旨ことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出るときには感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ』と言った。」
( http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140513/p1 「小海キリスト教会牧師所感 日本国憲法の制定過程(その8)第9条の発案者」より引用)
『 MacArthur - His Rendezvous with History 』(『日本におけるマッカーサー 彼はわれわれに何を残したか』(抄訳:毎日新聞社外信部訳、毎日新聞社, 1957年)
コートニ―・ホイットニ―はアメリカ合衆国の弁護士・法学博士、第二次世界大戦における陸軍の将官。戦後、占領軍・連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局の局長時代に、憲法草案制定会議の責任者として、日本国憲法草案作成を指揮した。
http://kenpou2010.web.fc2.com/450124.html より
幣原が辞去した後、すぐにホイットニーがマッカーサーの執務室に入っている。幣原と会談する前と後では、マッカーサーの表情が明らかに違っていて、彼はやや興奮したようにホイットニーに話した、という。その部分をコートニー・ホイットニーの著作(『コートニ―ホイットニ―伝 日本におけるマッカーサー‐彼は我々に何を残したか』毎日新聞社 昭和32年刊)P91から引用してみる。
「幣原首相はペニシリン治療のお礼をいった後、今度新憲法が起草されるときには、戦争を軍事施設を永久に放棄する条項を含むように提案した、という。幣原首相は、この手段によって、日本は軍国主義と警察テロの再出現を防ぎ、同時に自由世界の最も懐疑的な人々に対して、日本は将来、平和主義の道を追求しようと意図している という有力な証拠を示すことができると述べた。さらに幣原首相は、日本はすべての海外資産を失ったのであるから、もし軍事費の重圧から解放されさえすれば、膨張する人口の最低限度を満たす、機会をどうにか持つことができることを指摘した」
及び、
http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/7071.html にも。
また、ホイットニー准将は、この会談には同席していなかったが、著書「マッカーサー」の中で次のように書いている。
「幣原が辞した後、すぐ私は部屋に入った。マッカーサーの表情によって、何か重大なことが起きたことがすぐわかった。元帥の説明では、幣原は憲法起草では、戦争と軍備を永久に放棄する条項を加えるのを提案した。元帥はこれに賛意を表しないではいられなかつた。
戦争は時代おくれで、廃止すべきだというのが、彼の燃えるような信念であった。幣原首相の考えが、彼をひどく喜ばせた。そこで、憲法草案の準備を進めるよう私に指令を下したとき、彼はこの原則を加えなければならぬと私に頼んだ」さらに「マッカーサーの第二原則は元帥が幣原との会談後に書き留めたおおざっぱな概要であった」とも述べている。
http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-230.html
一つ前の憲法調査会の調査会長、高柳賢三の著書。「憲法9条は(中略)調査会の集めたすべての証拠を総合的に熟視してみて、私は幣原首相の提案とみるのが正しいのではないかという結論に達している」と記している。以下はその部分。
「憲法第九条は(中略)調査会の集めたすべての証拠を総合的に熟視してみて、私は幣原首相の提案とみるのが正しいのではないかという結論に達している。じかに幣原氏から自分の提案だと聞いた調査会の参考人長谷部忠氏は、閣僚諸氏は幣原さんにごまかされていたのだったという趣旨のことを述べているが、この長谷部氏の陳述は、当時の事情を背景として考えると、的はずれの推定ではないようにわたくしには思われる」
平野三郎さんがこの著書の中で、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』を書いた経緯について以下のように記している。
http://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html より
1946年(昭和21年)に公布された「日本国憲法」の誕生に関わり、とりわけ「戦争の放棄」を謳った第九条の成立に大きな役割を果たしたとされる 幣原喜重郎 元首相が、亡くなる直前に戦争放棄条項などが生まれた事情などについて語っている。
聞き手は衆議院議員であり、幣原の秘書官であった平野三郎で、聞き取りは、幣原が亡くなる10日ほど前の1951年(昭和26年)2月下旬に行われたとされる。
幣原は、『口外無用』として平野に語ったとされるが、平野は、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにした」とし、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』と題されたその文書は、1964年(昭和39年)2月に憲法調査会事務局によって印刷に付され調査会の参考資料として正式に採択された。
これが、いわゆる「平野文書」で、現在は国立国会図書館憲政資料室に保管されている。
平野は、この文書を書いた経緯を、自身の著書『平和憲法の水源 - 昭和天皇の決断』(1993年・平成5年刊)で次のように記している。
憲法調査会の審議が大詰めを迎えたある日、(中略)高柳会長から面会の申し込みがあった。(中略)
高柳会長は重大な決意を込めて言った。
「私はたまたま憲法の番人の役目を仰せつかった。私は番人に徹する積もりです。私は少なくとも第九条は未来永劫ふれるべきではないと思っている。自衛権は本来的にあるという意見があるが、未だかつて自ら侵略と称した戦争はなく、すべて自衛戦争ですから、一つ歯止めを外したら結局は元の木阿弥に戻ってしまう」
高柳会長の話は、さらに天皇とマッカーサーに及んだ。
「(中略)天皇は何度も元帥を訪問されている。(中略)天皇は提言された。むしろ懇請だったかもしれない。決して日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しい。(中略)天皇のこの熱意が元帥を動かした。もちろん幣原首相を通じて口火を切ったのですが、源泉は天皇から出ています。(中略)天皇陛下という人は、何も知らないような顔をされているが、実に偉い人ですよ」
最後に高柳会長は、「ところで、あんた、幣原さんから聞いた話を一つ書いてくれませんか」と言われた。
これは困った。たしかに話は聞いてはいるが、ただ聞いたというだけで具体的な資料はなにもない。私はお断りした。
それに対し、博士は、
「いや、あなたが幣原さんの秘書だったことは確かな事実だ。秘書なら話を聞く機会があって当然である。だからあなたの話なら、根拠がない訳ではない。実は調査会もそろそろ結論を出さねばならない。問題は、米国製か、日本製かということだが、幸い日本製だというマッカーサーの証言がある。しかし、アメリカの話である。どうしても日本側の証拠が必要だが、それがないので困っている。ついてはぜひ、あんたお願いします」
というのであった。
そこで、『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について』という報告書を私は提出した。
次に第九は何処の憲法にも類例はないと思う。日本が戦争を抛棄して他国も之について来るか否かに付いては余は今日直ぐにそうなるとは思わぬが、戦争放棄は正義に基ずく正しい道であって日本は今日此の大旗を掲げて国際社会の原野をトボトボト歩いていく。之につき従がう国があるなしに拘らず正しい事であるから敢えて之を行うのである。
「戦争放棄は正義に基づく大道で、日本はこの大旗を掲げて国際社会の原野をひとり進むのである。原子爆弾の発明は、主戦論者に反省を促したが、今日のところ、世界はなお旧態依然たる武力政策を踏襲している。しかし、他日新たな兵器の威力によって、短時間のうちに交戦国の大小都市ことごとく灰燼に帰する惨状を見ることになれば、諸国は初めて目覚め、戦争の放棄を真剣に考えるだろう。そのころ、私は墓場に眠っているだろうが、墓石の陰から後ろを振り返り、諸国がこの大道につき従ってくる姿を眺めて喜びとしたい」
①枢密院帝国憲法改正案第1回審査委員会 幣原喜重郎総理大臣答弁 1946年4月22日
「他国がついてくるかどうかを顧慮することなく正義の大道を踏み進んで行く決意。諸国はなお武力政策に執着する状況だが、ますます恐るべき破壊力ある武器が発明されてはじめて世界は目を醒まし、戦争の廃止を真剣に考えるようになる
②貴族院本会議議事録1946年8月27日 幣原喜重郎国務大臣答弁
幣原国務大臣「(南原 繁に)武力制裁を合理化・合法化することは、過去の幾多の失敗を繰返すことになる。文明と戦争は結局両立できない。文明が速やかに戦争を絶滅しなければ、戦争が先に文明を全滅させる、という信念をもって、私は改正案の起草に参加した—
③第九十回帝國議會貴族院 帝國憲法改正案特別委員會議事速記録第十二號(貴族院帝国憲法改正特別委員会1946年9月13日)
http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/kizokuin/contents/s210913i12.html
「兵隊ノナイ、武力ノナイ、交戰權ノナイト云フコトハ、別ニ意トスルニ足リナイ、ソレガ一番日本ノ權利、自由ヲ守ルノニ良イ方法デアル、私等ハサウ云フ信念カラ出發致シテ居ルノデゴザイマスカラ、チヨツト一言附加ヘテ置キマス」
④貴族院本会議議事録1946年8月30日 幣原喜重郎国務大臣答弁
幣原:(林 博太郎に)軍備不要となれば、非生産的な軍事費支出がなくなる。日本の国際的地位を高めるのは、平和産業の発達、科学文化の振興だ。これあってこそ日本の将来がある。当面は負け戦の後始末に活動力を奪われるが、その後の日本の前途は大きな光に満ちている。
76頁
ところで、幣原喜重郎は上にも紹介したようにすでに1946年当時から憲法改正議会などの公の場においても繰り返し9条の戦争放棄・戦力不保持について肯定的に、そして熱く語っていますが、自分が発案者だということは死の直前までは公にしませんでした。その理由について元「文藝春秋」編集長、堤堯著はその著書「昭和の三傑」の76頁にこう書いています。
「この時点(=1946年2月の時点)で、幣原・マック(=マッカーサー)の『密室のやりとり』(=1946年1月24日の二人の会談)は誰も知らない。事情を知れば、幣原は国賊・法匪とされ、閣議をまとめるどころか、総辞職論が噴出したであろう。あくまで幣原はマックの虎の威を借りてコトを進めるしかない」
安倍総理の祖父であり彼が信奉する岸信介によって組織され、東大名誉教授で貴族院勅議員でもあった英米法学者の高柳賢三が会長に就任した、昭和三十年代の憲法調査会の報告書、「憲法制定の経過に関する小委員会報告書(憲法調査会事務局)」の結論的部分に出てくる言葉を借りるなら、幣原が9条(戦争放棄・戦力放棄)の発案者であることを否定する意見はどれもみな「情況判断に基づく推測的意見」というべきでしょう。芦田均氏や松本烝治氏などは上にも紹介した1946年3月~10月の幣原の憲法改正議会における数多くの9条支持・推進の発言を無視して、同年2月の閣議での幣原の表面的な言動に関する彼らの記憶を根拠にして幣原が発案者であることを否定しています。そういう否定の仕方は西修氏など現在の幣原発案者否定論者にも受け継がれています。
幣原は1946年2月の閣議の時点で、たとえ表面上自分が9条に否定的な態度を演じたとしても、やむなくそれを受け入れるような態度を演じようと、自分が1月24日にマッカーサーに提案した9条は日本の新しい憲法に入れられると踏んでいた。それで、無用な摩擦や紛糾を避けるために自分が発案者であることを明かさず、同様の理由で死の直前まで自分が9条の発案者であることを公にしなかった。戦争の時代を潜り抜けてきた老練な外交官・政治家である幣原にとっては、そういう政治の手法はイロハのイのようなものだった。そう考えるのが自然であり妥当であると考えます。
高柳賢三「天皇・憲法第九条」の16頁の次の文章をもう一度ここで是非読んでいただきたいと思います。
「………ところが、幣原首相に近かった多くの人達は、当時幣原がそんなことはおくびにも出さなかったことと、二月二十二日の閣議で第九条の提案者がマ元帥であるかのごとき発言をしていたので、提案者は幣原ではないと推測したのも無理からぬところである。しかし調査会の集めたすべての証拠を総合的に熟視してみて、わたくしは幣原首相の提案と見るのが正しいのではないかという結論に達している。じかに幣原氏から自分の提案だと聞いた調査会の参考人長谷部忠氏は、閣僚諸氏は幣原さんにごまかされていたのだったという趣旨のことを述べているが、この長谷部氏の陳述は、当時の事情を背景として考えると、的はずれの推定ではないようにわたくしには思われる」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~sdpkitaq/konken67.htm
「続 幣原喜重郎の安全保障論」 より
日本の安全保障のあり方について、幣原本人がまとまった形で論じたものを紹介する。そこでは、1.自衛力保持、2.永世中立、3.他国による掩護(えんご)―という三つの見解を示し、現実的な視点からそのいずれにも徹底批判が加えられている(1945~1946年の総理当時「各所において試みた戦争放棄と徹底平和に関する演説の草稿」より=幣原平和財団「幣原喜重郎」、1955年、695~697頁)。
○軍備が皆無であることに乗じ、外国が領土を侵すことがあれば、自衛策はどうか―国民の最大関心事のこの問題には、1.やがて締結される講和条約や国際協定において、我が国が何らかの自衛施設を持つことを認める取り決めが望ましい。2.永久局外中立国としての保障を求めるべきだ。3.いずれかの国から必要に応じて兵力的掩護を受ける約束を取り付けるべきだ――といった意見がある。これらは、いずれも現実の政策として適切なものとは思われない。
■中途半端な自衛力は侵略国をおびき出す餌
●自衛施設を保有することを希望する意見も、自衛の名のもとに再び軍国主義に走って、外国と事を構えようとする不純な動機から出たものでないことは、十分了解できる。しかし、我が憲法は一切軍備を禁じているだけではない。侵略国の死命を制する力もなく、ただ消極的に敵軍が領土に上陸侵入することを防ぐに足る程度の中途半端な自衛施設などは、かえって侵略国をおびき出す餌となり、侵略国を引掛ける釣針にはならない。弱勢の兵力でも全く無いよりは優る。
少なくともある期間、侵入軍を阻止する効果があるだろうなどと考えるかも知れないが、近代の歴史は反対の事実を示している。先の大戦でドイツは電光石火的戦争と称して、弱勢の隣国を瞬く間になぎ伏せたではないか。もし日本の兵力が、いかなる強国またはどの同盟国にも桔抗して侵入軍を徹底駆逐できるものであれば、連合国側がそれを承認するはずはなく、もし承認されるとしても国力はそれに耐えられない。強いて軍備の過大な充実を試みるなら、侵略されるより先に内部の疲弊困意によって国家の破滅を来すことになる。
■ドイツに破られて局外中立の価値は暴落した
●永久局外中立の効果も疑わしい。大正3年、ドイツはフランスと開戦を決意するや否やベルギーの永久局外中立を無視して侵入し、第一次世界大戦の幕が開けた。これ以来、永久中立の価値は俄然暴落し、世界はもはや真面目にこれを信頼しなくなった。日本も、ヨーロッパの前世紀に行われた旧制度にならって自国の安全を図ろうとするような望みを持ってはならない。
■他国による掩護(えんご)条約は敵対の口実
●一国がいつでも優勢な兵力を東洋方面に集中できる体制を整えて日本を掩護することは、容易でない犠牲を伴う。したがって、我が国が特定第三国と条約を結び、その国が現実の利害関係を持たない場合でも、あらゆる犠牲を忍んで日本を掩護する義務を引き受けることを期待するのは、元来無理な注文といわざるをえない。加えて、兵力的掩護条約の存在それ自体が侵略国を刺激し、その敵対行動の口実を与えることになる。他方、日本が他国から侵略された結果、直接または間接に自国の利益を脅かされる第三国は、条約上の義務がなくても、また日本の懇請がなくても、自国の利益を擁護し、かつ国際的秩序を維持しようとするため、日本に対する侵略を排除する手段を極力講ずることになる。
■正義の大道が侵略から救う確かな近道
●要するに、他力本願の主義によって国家の安全を求めるべきではない。侵略から救う自衛施設は、徹頭徹尾正義の力である。我々が正義の大道を邁進するなら「祈らぬとても神や守らん」である。その正義の規準は独断ではなく、世界の客観的な公平な世論によって裏付けされたものでなければならない。これは遠路のように見えて、実は最も確かな近道である。
■立派な軍隊にしようとすることが戦争原因
幣原の以上のような安全保障論を補足する材料として、さらに他の資料から以下を紹介する。
●将校になれば、その任務を効果的なものにしたいと考えるのは当然だろう。負けるに決まっているような軍隊なら、真面目に軍人となって身命を賭す気にはならない。そこでだんだん深入りして立派な軍隊をこしらえようとする。戦争の主な原因はそこにある。(幣原著「外交50年」原書房、1951年初版、74年復刻版、213~214頁)
■軍隊があってもやられるときはやられる
●今の戦争のやりかたでは、たとえ兵隊を持っていても殺されるときは殺される。しかも多くの武力を持つことは財政を破綻させ、我々は飯が食えなくなるのだから、一兵も持たない方がかえって安心ということになる。日本の行く道はこの外にない。わずかばかりの兵隊を持つよりも、むしろ軍備を全廃すべきだという不動の信念に私は達した。(同上、215頁)
■文明が戦争を全滅しなければ、戦争が文明を全滅する
●第9条は戦争放棄を宣言し、日本が全世界で最も徹底的な平和運動の指導的地位に立つことを示している。この規定をもって一片の空理空想だと冷笑する評論家は、やがて近代科学の躍進に伴う殺人的、破壊的兵器の新発明が、人類の生存にいかなる脅威を与えるかを悟らないものといわねばならない。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争が先ず文明を全滅するだろう。(幣原著「憲法改正と新国家建設」=法律新聞社「法律新報」1946年12月号、38頁)
■日本は文明擁護の先見の明を誇ることになる
●自衛権は認められるべきものであるとかないとかいう議論は、人類が今後の大戦争に耐えて生き残れることを前提とするが、それこそまったく空理空想と言わねばならない。人類が絶滅しては、自衛権も何の用をなすか。従来兵器の幾百倍の破壊力ある装置が発明される暁には、列国の民心は初めて事態の重大性に目覚め、戦争放棄を要求する大勢が世界を風靡するようになる。そのとき日本は、文明擁護運動の先端に立った先見の明を誇ることができる。(1946年11月12日、日本進歩党近畿大会での総裁挨拶=幣原平和財団「幣原喜重郎」、1955年、715頁)
■武力政策の世界はやがて正義の大道に従う
●戦争放棄は正義に基づく大道で、日本はこの大旗を掲げて国際社会の原野をひとり進むのである。原子爆弾の発明は、主戦論者に反省を促したが、今日のところ、世界はなお旧態依然たる武力政策を踏襲している。しかし、他日新たな兵器の威力によって、短時間のうちに交戦国の大小都市ことごとく灰燼に帰する惨状を見ることになれば、諸国は初めて目覚め、戦争の放棄を真剣に考えるだろう。そのころ、私は墓場に眠っているだろうが、墓石の陰から後ろを振り返り、諸国がこの大道につき従ってくる姿を眺めて喜びとしたい。(1946年3月20日、枢密院非公式会合発言=同上、694頁)
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